自分自身の死は恐ろしい。だがより苦痛なものがあるとしたら、それは大切な人の死ではないだろうか。親、子、恋人、親友…自分にとってその人が、かけがえのない「その人」であるが故である。
では、そのかけがえのなさ、愛情の根底にあるものとは何か。一見、無味乾燥に思える、英米系の言語哲学を援用して考えてみたい。
“思い出をすべて再現”しても、なぜ違和感が残るのか
たとえば自分の子供。虐待をするような一部を除けば、親ならわが子の命と引き換えに、自分の命を捧げることなど容易いことだろう。それほど愛おしい存在を喪失した時の悲嘆は計り知れない。
代替不可能な、唯一無二の存在を形作るもの。それは、その子と共に過ごした時間であり、歴史ではないだろうか。その子が笑い、泣き、遊び、触れ合った、「思い出の総和」。それこそわが子を何物にも替えられない唯一の存在たるものではないか。だからこそ、その喪失は耐え難いのである。
では、その「思い出の総和」をすべて再現した存在が現れたら「その子」は、喪った「あの子」なのだろうか。いや違う。「あの子」は何物にも替えがたい「あの子」しかいない。そう思いたくはならないだろうか。
名前とは何か――「記述理論」が導く死者復活の発想
もし亡くなった人の記憶、癖、話し方、思考パターンなどを「完全に」再現したクローンやAIが現れたらどうなるだろう。このシミュレーションによる死者の復活はすでに実現に向けて加速している(注)。
しかし、それは本当に喪った「あの子」か。そのために現代の言語哲学において重要な「記述理論」を援用する。
名前とは何か。特に「固有名」(固有名詞)とは何か。私たちは「アインシュタイン」という名前を聞くと、アインシュタインを知る人なら誰しも「あの」アインシュタインを思い浮かぶだろう。つまり「相対性理論の完成者」「あの舌を出した写真の物理学者」や「20世紀最大の天才」云々。その人の知識によって様々だが、概ね「あの人物」がアインシュタインだと言ってよいと思われる。
このように名前とは、その人物を一意的に特定する、様々の記述の束であるとする考えを、「記述理論(descriptivism)」という。バートランド・ラッセル(1872-1970)やゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)らが理論化した。確かに私たちは「大谷翔平」を「野球選手」、「ドジャース所属」「二刀流」などと記述された人物として認識している。
そして、この記述理論を基盤とした考え方を、シミュレーションによる復活に結びつけてみる。つまり「ドジャース所属」であり「二刀流」である。さらに好きなもの、過去の試合での出来事。どこへ行き、このように感じた…云々。これら膨大な数の記述。仮にそれらを「完全」にシミュレーションできたとしたなら、そこに「大谷翔平」が生まれるというわけである。同じ理屈で喪われた大切な人の、その記述を完全に集めることができれば、死者が復活することになる。
「援用」と書いたように、記述理論そのものが直ちにシミュレーション復活論を導くわけではない。だが、もし人を記述の束としてのみ捉えるなら、完全再現されたシミュレーションを「その人」と見なしたくなる誘惑が生じるのではないだろうか。
だが、この記述理論を痛烈に批判したのが、クリプキの固有名をめぐる議論である。
(注)拙稿「見果てぬ夢の実現か、虚しい模倣か?AIによる「死者の復活」を巡る考察」
クリプキの反撃――固有名は「記述」では語れない
アメリカの哲学者・論理学者、ソール・クリプキ(1944-2022)は、記述理論に対して真っ向から反発した。
クリプキの主張は、たとえば、もし相対性理論を完成させたのが、アインシュタインではなく別の人物だったと判明しても、私たちは依然として「あの人物」をアインシュタインと呼ぶだろうか?
クリプキは「呼ぶ」と答える。その人を指す固有名は記述の束ではない。どのような記述であろうと、アインシュタインとは「あの人物」である。
たとえば、「アインシュタインが相対論を完成しなかった」という「もしもの世界(哲学で言う『可能世界』)
。そこでも「アインシュタイン」は「あの人物」を指し続ける。一方、その世界で「相対論を完成した人」という記述は別の人物を指しているだろう。
記述は状況が変われば異なるものを指すが、固有名はあらゆる「可能世界」においても同一人物を指す。これを「固定指示子(rigid designator)」という。
固有名が固定指示子である理由はクリプキによれば、まず、親が子に名前を付ける(命名儀式)。これが起源となる。その名前は近親者やその周辺に広がり伝え継がれていく。この歴史的・因果的なつながりを「指示の因果説」という。
その過程で「〇〇は△△である」のような記述が、名前に付与されるが、たとえすべての記述が当てはまらなくなっても、その名前は同じ人を指す。これはシミュレーションによる復活に刺さる「棘」にならないか。
「あの日」に出会えたから、「この子」なのだ
ある高齢夫婦に第一子が誕生したと仮定する。高齢出産はそれなりのリスクがあるため、「もっと若い頃に…」と言われることがままある。
しかし、もしも、10年前に子が授かったとしても、それは目の前の「この子」、「2022年12月11日に生を受けた、この子」ではない。
もちろん10年前の「その子」にも、今の「この子」と変わらない愛情を注いだだろう。しかし、それでも「その子」は「この子」ではない。「この子」と出会うには、「2022年12月11日」を待たなくてはならなかった。だから高齢であろうと、他の何があろうと、これで良かったのである。
これはある人は別の起源から生まれていたなら同じ人ではありえない、というクリプキ的な発想と響き合う。シミュレーションで完璧に再現されても、「2022年12月11日の出会い」は複製できない。「クリプキの棘」はこの事実に対して論理的に刺さっているのだ。
骨格としての固有名、肉付けとしての思い出
「思い出の総和」がその子のオリジナリティだという感覚は拭い難い。だが、それだけに依拠すると完全なシミュレーションが、すべての記憶・行動パターンを再現したクローンやAIを実現した場合、それが「本物」とみなされてしまうリスクが生じる。
しかし、喪われた子をデータで完全に再現したとしても、それは因果的・歴史的に連続した同じ個体ではない。クリプキに言わせれば、その存在としての「起源(始まり)」が違う。
「あの時、親の体から生まれ、あの日時に出会った」という物質的・歴史的な始まりは、データでは絶対に複製できない。クリプキの理論はここで機能する。「その子」独自の出生や初期の因果、連鎖は代替不可能である。
「クリプキの棘」が深く刺さっていたとしても、それは「この子」と過ごした記述のすべて、「思い出の総和」を否定することにはならない。クリプキが否定しているのは、記述を指示の「本体」とする説であって、記述が日常的に誰を指示しているかを説明する役割までは否定していない。
いわば固定指示子は骨格であり、「思い出の総和」は肉付けである。親が愛するのは「この子」そのものであるが、その愛情は「思い出の総和」(共有された記述的な経験、当たり前の、しかし、かけがえのない日常)を通じて深まっていく。
確かにそれ「のみ」を認めると、シミュレーション問題で見るような違和感が生じる。クリプキ的な起源を基盤とした「この子」との、日々の日常の積み重ねが、かけがえのない関係を育んでいくのである。
出会えたことそのものが、すでに奇跡だった
クリプキの理論は「この子はこの子でしかない」「この子は、他のどの子とも置き換えられない」という親の直観を支持する。しかし「なぜそうなのか」については、クリプキも含めてどの理論も完全な答えを出していない。
だが「クリプキの棘」はシミュレーションによる復活論に鋭く刺さっている。遠い彼方の「復活」を否定するという意味では残酷なことかもしれない。その棘が抜けない限り「この子」を喪ったとき、いかなる方法をとっても再会はできないということだからだ。
しかし、だからこそ、この「棘」は、私たちに冷酷な現実を突きつけると同時に大切なことを教えてくれる。それは「この子」が唯一無二のかけがえのない「この子」であることの証であり、「この子」と出会えた奇跡の証ではないだろうか。
参考資料
■ソール・A・クリプキ著/八木沢敬・野家啓一訳「名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題」産業図書(1985)
■三浦雅彦「可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える」(NHKブックス) NHK出版(1997)
■服部裕幸「言語哲学入門」勁草書房(2003)



























