死後に天国と地獄があるなら天国に行きたいと思うのは当然だろう。天国は喜びに満ち溢れ永遠の幸せが約束されるというイメージがある。だが仏教でいう天国はそのような理想郷ではない。むしろその背には地獄が控えているという。仏教が説く真の救いとは。
六道の中で最も恵まれた迷路:天界もまた「脱出すべき場所」である理由
仏教では人間は死後生まれ変わる。生まれ変わる先は6つの世界がある。天・人・修羅・餓鬼・畜生・地獄である。これを「六道」といい、六道を延々と生まれ変わり続けることを「六道輪廻」という。仏教は解脱、つまり悟りを開き、この輪廻の円環から脱することを理想とする。
しかし、いわゆる「天国」のイメージに慣れた現代人には奇妙に思えるのが、六道には「天」があることである。天界ではダメなのか。なぜ天界も脱出するべき六道に入っているのか。解脱とは天界に行くこととは違うのか。
仏教の天界(天道)とは六道の中で最も恵まれた境地である。生前に善行・福徳を積んだ人が行くとされる、いわゆる天国と同じ世界といっていい。天界では何の苦しみも悲しみも無く、人間から見れば不死に近いほどの長寿で、あらゆる快楽、喜びに満ちた生活を送る。だが、興味深いことに仏教では、いわゆる「天国」=天界(天道)は、決して手放しに素晴らしいとはされない。天界は仏教が目指す解脱の境地、涅槃ではない。また「極楽」に代表される「浄土」とも異なる。
三層に分かれた神々の世界:欲望の超越だけでは届かない「真の悟り」
天界は大きく「欲界」・「色界」・「無色界」の3階層から成り立っている。底辺の欲界は「六欲天」とも呼ばれ、地上世界(須弥山)の上に積み重なる6つの天(四天王天・忉利天(三十三天)・夜摩天・兜率天・化楽天・他化自在天)によって構成されている。人間界と直結しているレベルで、人間の肉体的感覚や欲望、快楽などがまだ存在しており、それぞれに「天部」と呼ばれる神々が住んでいる。
その上にある色界は、物質的な身体はあるが欲望は消えている。深い禅定(瞑想)に対応する世界である。釈迦に仏教の布教を促した梵天がここにあたる。さらに上位の無色界では身体すら超越した純粋な精神としての存在になる。これを「非想非非想処」という。ヨーガなどでいう最高の精神状態を表し、ここまで来ればほとんど悟りに近いような気もする。だが釈迦は聖者について瞑想を修行し、色界、無色界の境地にまで達したが、これは真の悟りではないと聖者の下を辞したとされる。
墜落のカウントダウン:絶頂のあとに訪れる「天人五衰」の絶望
天界の住人はあまりの享楽にそこから脱出しようとはとても思えず、解脱への修行をする気にはなれないという。また、自分はこれだけ良いことをしたのだから天界に生まれ変わったのだという驕りもあるともいう。それは人間と同じ物質的欲望を持つ低次の欲界だけではない。深い瞑想によって物質的欲望を超越した色界、無色界でも同じことである。これら最高位の天人は深い精神状態という静けさの中にいるので、一見悟りに近いように見えるが、あまりに深い境地に達してしまったので、これでいいのだと天界に安住してしまうのである。これもまた、欲界とは形は違うが快楽と驕りであることに変わりはない。親鸞は喜びに驕れる善人より、苦しみの中にいる悪人こそが救われると説いた。それゆえ解脱をするには楽しみも苦しみも適度に混ざっている人間界が一番適しているとされる。
天界は人間から見れば永遠に近くても、有限の時間には違いなく、輪廻の中のひとつに過ぎない。いつの日か福徳、善行という貯金が尽きたとき、天人にはこれまで苦しみや悲しみを顧みなかったツケが回ってくる。「天人五衰(てんにんのごすい)」と呼ばれる5つの予兆に始まり、臨終時には地獄以上の苦痛に苛まれ、輪廻の円環に墜ちるという。その先は天界以外の世界、人間や修羅、あるいは三悪道(餓鬼・畜生・地獄)に生まれ変わることになる。天界の境地は六道の中で最も高い。高ければ高いほど、墜落のダメージが大きいのは当然だろう。仏教における天国、天界は決して安住の地ではないどころか、地獄に最も近い場所であるともいえる。
安住ではなく「不退転」の修行場:阿弥陀の本願と他者を救う慈悲の心
天界すら輪廻の中ならどのようにして解脱できるのか。釈迦のような聖者の中の聖者ならともかく凡人は永遠に輪廻を廻り続けるしかないのか。ここで浄土思想と「極楽浄土」が登場する。極楽浄土は天国のような安住の地ではなく、阿弥陀仏の本願により必ず悟りを得て解脱が約束された、最高設備の修行場というべきである。そして一度極楽に往生すれば仏になる「成仏」は確実であり、二度と輪廻には戻ることはない。これを「不退転」という。極楽往生とは解脱するための仏弟子になったということなのである。そして悟りを開き解脱して「仏」に成ったあとはどうなるか。人々を救うために再び下界に戻る。これを「回向」という。
物質的快楽にせよ、深い精神状態にせよ、天人は自分たちだけで享楽にふけ、人の世の悲しみ、地獄でのたうつ人たちの苦しみを知らない、知ろうともしない。真の悟りを開き、輪廻から解脱した「仏」とはそこが違う。地蔵菩薩は地獄へ、観音菩薩は人間界へ降り立つ。弥勒菩薩は56億7000万年後のために人間界に近い、兜率天で修行中である。いずれも如来になれるのにあえて菩薩のままで下界に回向する仏たちである。仏は自分たちの幸せなど顧みない。そもそも幸せや不幸という分別や、解脱したいという執着すら超越している。その大きな心と力は自分たちが悟って終わりではない。苦しみの中にある衆生へ慈悲の御手を差し伸べるのである。
生前に善いことをしたから天国で自分だけが救われるとはいかない。救われる存在から救う存在となることが真の救いとするのが、仏教独特の深く面白いところである。
揺らぎこそが成長の種:苦楽が混じる人間界に与えられた「解脱への特権」
現実世界に置き換えると、六道は人間存在の諸要素を反映しているともいえる。生存本能(畜生)、物欲(餓鬼)、闘争(修羅)、悪行(地獄)、善行(天)。そしてそれらの間に揺れる不安定な存在が人間である。逆に言えば喜びも苦しみもすべて揃っているのが人間界(人道)である。喜びだけの天界に比べ、往生するには最も適している世界といえる。せっかく人間に生まれることができたのだ。これは悟りのチャンスである。葬儀の際には、ただ惜しむだけで終わらず、念仏なり真言なりを手向けて、死者が本当の意味の成仏(解脱)できるよう祈りたい。



























