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高塔山と甲州八幡宮に建てられた火野葦平の文学碑とその刻印文字

大阪市北区・堂島(どうじま)川沿いには、1990(平成2)年、大阪市で開催された「花博(はなはく)」こと、国際花と緑の博覧会に合わせて、日本証券業協会大阪地区協会によって「堂島米市場跡記念碑」が建てられていた。それは、江戸時代の1730(享保15)年、西欧諸国よりもはるかに早く、ここで先物取引が行なわれていたことを後世に伝えるためのものだった。しかしこの碑には、本来、先物取引を表す「帳合(ちょうあい)米」と刻むべきところを、「張合米」と間違えられたまま、30年近く放置されていた。

高塔山と甲州八幡宮に建てられた火野葦平の文学碑とその刻印文字

火野葦平の死後、高塔山に文学碑が建てられた

しかし昨年10月24日、日本国内の株価指数先物市場が創設30周年を迎えたことを記念して、建築家・安藤忠雄のデザイン協力により、重さ約9.5トン、長さは最大で約3メートル、直径は約1.5メートルの米粒を模した御影石製の新オブジェ「一粒の光」が、大阪堂島商品取引所によって建てられた。それに伴い、間違った語句が刻まれていた記念碑は、撤去された。

戦中戦後の日本を代表する作家・火野葦平(ひのあしへい。本名・玉井勝則。1906(戸籍上は1907)〜1960)の「火野葦平文学碑」にも、大阪・堂島の記念碑同様、「もどかしい」「悔しい」問題が存在している。

ちなみに「火野葦平文学碑」とは、1960(昭和35)年8月1日に、火野の若松の自宅「河伯洞(かはくどう)」からほど近い、高さ124メートルの高塔山(たかとうやま)の山腹に建てられたものである。文学碑建設そのものは、火野の本通夜が行われた1月25日には既に、話が出ていたという。それから、あれよあれよのうちに決定され、程なくして「火野葦平文学碑建設期成会」が組織された。

文学碑に刻む文字について火野葦平も遺族もある言葉を望んでいた

碑に刻む言葉として、遺族側は、生前の火野が好んで書いており、死の直前に限定出版された『火野葦平詩集』(1959年)の冒頭にも掲げられていた以下の二つのどちらかで検討されていた。

  「足は地に

  心には歌と翼と

  ペンには色と肉を」

  「強きもの

  美しきもの

  悲しきもの」

文学碑建設は、着々と具体的なものになっていった。設計は谷口吉郎(たにぐちよしろう、1904〜1979)。建設期成会の名誉会長は、早稲田第一高等学院時代から火野と知己があった、作家の丹羽文雄(にわふみお、1904〜2005)。会長は、火野と小学校の同級生であった岡部宏輔(1906〜1996)が務めることになった。更に、当時の若松市長・吉田敬太郎(1898〜1988)が中心となって、市民からの浄財を求める募金活動も始まった。

ところが火野葦平の盟友である劉寒吉が突然あらわれて…

そんな折、火野の三男で、現在は河伯洞の管理人をしている玉井史太郎(ふみたろう、1937〜)の元を、火野の盟友かつ、九州文学界の重鎮であり、地域の文化活動に多大な貢献をなした作家・劉寒吉(りゅうかんきち。本名・浜田隆一。1906〜1986)が訪れた。劉が携えていた1枚の色紙には、以下の通り、火野の筆跡で一篇の四行詩が記されていた。

  「泥によごれし背嚢(はいのう)に

  さす一輪の菊の香や

  異国の道を行く兵の

  眼にしむ空の青の色   葦平」

しかし史太郎は、その詩の存在を知らなかった。劉が言うには、この詩の前半2行を碑文とすることを、期成会で決定した。しかし署名が「葦平」だけなので、この書体と同じような「火野葦平」の署名を探して欲しいという。史太郎は一方的な申し出に対し、「それはおかしいのではないですか」と、かねて用意していた2篇の詩を劉に示した。しかし劉は、「もうこれに決まったから、署名を探しておいてくれ」と言い残して帰って行った。

史太郎を含む火野の遺族たちは、戦中戦後を通して、「兵隊作家」「戦争作家」などのレッテルに火野が苦しみ抜き、歯を食いしばるように生きてきたというのに、死後もなお、その屍を鞭打つような碑文の選定を、一体誰がなしたのか、と泣きたい思いだった。

しかも四行詩は4行で完結する。そこから2行だけを取り出してしまうのは、史太郎でなくとも、不恰好で収まりがつかないものに思えてしまう。それは、7字+5字で1行をなす、七五調の言葉が4行連なることで、詩世界が構成されているからだ。後半2行には、赤紙1枚で遠い異国の戦場に投げ込まれた兵隊たちが、遠く故郷に続く道に郷愁を馳せる思いが描き出されており、そこにこそ詩情や、火野の作詩の意図がある。この詩を碑文に刻むなら、この四行詩全部を刻まなければならないのではないか!しかし史太郎は、劉に激しく抗弁することができないまま、その思いを心に飲み込んでしまった…

完成した高塔山の火野葦平文学碑

「戦後のすさんだ世の中を、河童の持つ、洒脱ですっとぼけ、変幻自在のようで間が抜け、笑いを振りまく性(さが)と徳を広めることを通して、明るく照らそう」という火野の思いから、高塔山の頂上で、河童とかねて親交があるという火野の「仲介」の下で河童族のお出ましを願うという、河童をこよなく愛した火野らしい「河童祭り」が行われるようになり、それが地域の人々を大いに楽しませていた。そのことから文学碑の除幕式は、お祭りの日である8月1日に行いたいと、若松市側から依頼があった。そうなると、時間があまりない。碑を設計することになった谷口は、大急ぎで建設に取り掛かることになった。

設置場所が高塔山の中腹に決まってから、谷口は、石をもって火野の「肖像画」を描こうとした。つまり、火野の作品に見る大らかさや、こまやかな詩情を念頭に置き、石碑にそれを表現しようとしたのだ。大きさは横2メートル、高さ1メートル、厚さ75センチの大型の黒御影(みかげ)ながら、黒い石のところどころに白い筋目が散っているのが特徴的な、福島県産の浮金石(うきがねいし)を用いた。そして碑の黒さを際立たせるために、台石はスウェーデン産の赤御影。更にその下には、岡山県・北木(きたぎ)産の白御影を短冊形に切って敷き並べ、安定感を。そして地面には、幅9メートル、奥行き6メートルの範囲に、愛媛の伊予(いよ)石の砂利を敷き詰めて、清浄感を演出したという。

また碑の地下には、『火野葦平選集』(東京創元社、1958〜59年)全8巻、遺作の『革命前後』(1960年)の原稿用紙、生前用いていた万年筆、付けペン、ペン軸、へその緒を封じ込んだ銅製の容器が埋められた。

高塔山の火野葦平文学碑の除幕式では

文学碑の除幕式には火野ゆかりの人々のみならず、火野の作品や人柄を愛した多くの人々が詰めかけた。その挨拶の折に、建設期成会の名誉会長を務めた丹羽文雄が、「この碑文の詩は、『泥によごれし背嚢に/さす一輪の菊の香や/異国の道を行く兵の/眼にしむ空の青の色』と4行のもので、この4行があったら葦平も喜んだだろう」と、ある意味「爆弾発言」をしたのである。

一方、この言葉を強く推した劉は、自身の死の前年である1985(昭和60)年に、「戦場というあらあらしい情況の中に一輪の野の花を愛したこの短詩の風韻こそは、火野葦平の文学精神をあますところなく伝えていると思われ、私の所蔵する色紙の中からこの詩を選んだ野田宇太郎(うたろう。詩人。1909〜1984)君の詩眼に敬意を表するしだいである」と書き記している。劉は、「葦平といえば『糞尿譚』(1938年)だし、『花と龍』(1953年)もあれば『幻燈部屋』(1942年)もある。しかし現在では、なんといっても『麦と兵隊』である」とし、「たしかに『麦と兵隊』は戦記文学である…(略)…かれはこの作品の中で、戦争の惨酷を訴えこそすれ、無慚、惨忍を賛美したり賞讃したりなどは、いっさいしていない」、「日本兵とゴチャゴチャになって進んでゆく中国兵の中に、友人の画家に似た顔を発見して懐しがったり、中国兵の斬首の光景に眼をそむけたりする柔軟な知性をひらめかせている」ような、「奇妙な戦記」であると、その文学的価値を讃えた。そしてそれをふまえて碑に「泥によごれし背嚢に/さす一輪の菊の香や」だけを刻んでいるのだと、自身または野田の「取捨選択」を正しいものとし、「戦場にあって梅の花や菊の香に心を傾ける詩情を尊い」ものとし、「鎧のエビラ(箙。弓矢を入れて背負う武具)に梅の小枝を挿して戦場に向った若武者の詩情を解しない者が、この小詩を紹介するときに、『異国の道を行く兵の/眼にしむ空の青の色』とつづけて、物知り顔をしたがるのは困ったことだ。あの詩は小さく二行で切れているからいいのである」(全て原文ママ)と断じていた。

それでもやっぱり高塔山の文学碑に刻まれた文字に納得がいかなかった

それでもやっぱり高塔山の文学碑に刻まれた文字に納得がいかなかった

劉や野田の「判断」が正しいのか。それとも史太郎や丹羽の考え方が正しいのか…完成した文学碑に対して史太郎は、「葦平を兵隊作家にとどめゐる文学碑文目をそむけたり」と詠み、「私の悔いは、この碑がある限り消えそうにない」と述べていた。

生前の火野の若松での秘書で詩人だった小田雅彦(1918〜1990)は、史太郎同様の思いを抱いていた。自殺が明かされる4年前、小田は火野の東京の秘書で作家の小堺昭三(1928〜1995)に会った際、「火野先生の亡霊が毎晩、おれの枕元に出てきて、はよォ自殺だったことを公表しろ、出ないとわしは成仏できん……こう言っとる(言っている)んだよ。おれはつらいよ、苦しいよ」と訴えていたほどだった。その執念ゆえに小田は、「足は地に/心には歌と翼と/ペンには色と肉を」の言葉が書かれた文学碑建設を実現させたのだ。しかもそれは火野が生まれ、そして自らの命を絶った若松の地ではなく、戦後における火野の代表作である『花と龍』の舞台であり、火野自身が戦場の中国大陸に旅立った「場所」でもあった、北九州市門司(もじ)区にある、甲宗(こうそう)八幡宮の境内だった。

そしてその思いを行動に移した

そしてその思いを行動に移した

甲宗八幡宮の宮司・大神文和(1912〜2004)が火野と戦友だった縁を頼った小田は、1982(昭和57)年、大神の元を訪れ、「今年は葦平の二十三回忌で、先生の遺言の碑を建てたいと念願し、永年努力してきたが、未だに果たせない。私も歳をとり、このあたりで区切りをつけたい」と、援助を願った。そこで大神は近在の石材店と相談し、石碑の設計を始めていた。

また、福岡在住の詩人で、早稲田大学校友会福岡県支部の世話人でもあった柿添元(1918〜2008)が、1978(昭和53)年に同支部の会報『福岡早稲田』で、作家・火野葦平について執筆することとなった。その際、小田と会い、火野の資料を借り受けていた。そこに、死の直前にあった火野が、ごく限られた人々に、「足は地に/心には歌と翼と/ペンには色と肉を」の文言を、自信が亡くなった後、もし文学碑を立てることがあるなら、これにして欲しい、ともらしていたことを発見した。またそこで柿添は、小田から文学碑建立の相談を受けてもいた。
柿添はその言葉を、「火野の人間としての生き方、文学者としてのあり方への希求である。堅実なリアリストとして生き、かつ観察し、大いなる想像力と調べとを練り上げ、豊かな色彩と肉付けとを自らに要求する。そのような意志と願望を実現した自作銘である」と絶賛していた。しかし火野の死は長らく、自殺だったことが伏せられており、しかも亡くなった年に高塔山に建てられた文学碑は、火野の遺志を必ずしも反映したものではなかったことも、先に挙げた資料によって明らかになった。こうしたことから、早稲田大学校友会福岡県支部でも、火野の遺志を汲んだ碑を建てようとしていた。しかし、福岡県内に建てる場所が見つからないまま、長い年月だけが流れていた格好だったのだ。

そして甲州八幡宮にも火野葦平の文学碑が建てられた

そして甲州八幡宮にも火野葦平の文学碑が建てられた

こうした中、柿添から大神に、ぜひとも共同で文学碑を建てようと申し出があった。そこで大神は、神社の境内に1968(昭和43)年5月、火野の遺筆による、

  「杭州西湖の思ひ出に

  西湖の水の青くして

  紅木蓮の花咲けば

  たづぬる春の身に近く

  兵隊なれば楽しかる  葦平」

と、表面に『花と兵隊』(1939年)にちなんだ、中国・西湖(せいこ)の思い出をうたった詩が刻まれた「小倉歩兵第百十四聯隊第七中連隊慰霊碑」を建立していたことから、柿添に文学碑建立の一切を譲った。その結果、慰霊碑の隣に、早稲田大学校友会福岡県支部によって、火野の死の二十三回忌と早稲田大学創立百周年を記念した形で、火野の遺志を反映した文学碑が建立された。高塔山の石碑同様、黒御影石で、1.85メートルの高さのものだ。

どちらの文学碑に刻まれた言葉が良いのだろうか…

偶然にも火野は、自身の高塔山の文学碑同様、谷口の手によって1947(昭和22)年、石川県金沢市の卯辰山(うたつやま)自然公園内に建立された、作家・徳田秋聲(しゅうせい、1871〜1943)の文学碑について記していた。「心のこもった美しい碑である」として、「あまりの床(ゆか)しさに、しばらくその前を立ち去りかねた」「すこし凝りすぎていると思はれるほど神經が使はれて居り、私は文學碑の日本一ではないかと思つた」と谷口の偉業を讃えていたのだ。

そのような火野の魂は果たして、自身の2基の文学碑をどう受け止めているのか。命日の1月24日直前の日曜日に毎年、火野を愛する地域の人々によって「葦平忌」が営まれる、高塔山のものがいいのか。それとも、自身が希望した言葉が刻まれた甲州八幡宮のものがいいのか…。

参考資料

■火野葦平『花と兵隊 杭州警備駐留記』1939年 改造社
■火野葦平『火野葦平詩集』1959年 文苑社
■丹羽文雄「火野葦平をいたむ」『日本経済新聞』1960年1月25日朝刊(12頁)日本経済新聞社
■丹羽文雄「火野葦平を思う 私のおせっかいな不安が的中した それが悲しい」『東京新聞』 夕刊 1972年3月3日(6頁)東京新聞社
■田中艸太郎「劉寒吉」日本近代文学館・小田切進(編)『日本近代文学大事典』第3巻 1977年(498頁)講談社
■丹羽文雄「火野葦平」『私の年々歳々』1972/1979年(120−127頁)サンケイ出版
■田中艸太郎「火野葦平」日本近代文学館・小田切進(編)『日本近代文学大事典』第3巻 1977年(118−120頁)講談社
■火野葦平「文學碑あれこれ(抄)」谷口吉郎(編)『記念碑散歩』1947/1975/1979年(34頁)文藝春秋
■小堺昭三「火野葦平は壮烈に“戦士”した」梶山季之(編)『月刊噂』1972年5月号(32−38頁)季龍社
■谷口吉郎「北九州・高塔山の碑」谷口吉郎(編)『記念碑散歩』1975/1979年(91−96頁)文藝春秋
■劉寒吉「心あたたかい石の肖像画」谷口吉郎(編)『記念碑散歩』1975/1979年(97−101頁)文藝春秋
■「葦平の碑を福岡城址に −残された自筆の碑文− 柿添元」『西日本新聞』夕刊 1980年3月5日(4頁)西日本新聞社
■「足は地に 心には歌と翼を ペンには色と肉を 6月にも葦平文学碑 −門司−」『西日本新聞』夕刊 1982年4月7日(7頁)西日本新聞社
■劉寒吉『わが一期一会』上巻 1985年 創思社出版
■城戸洋『鶴島正男聞書 河童憂愁 葦平と昭和史の時空』1994年 西日本新聞社
■大神文和「葦平の詩碑建立」中山主膳(編・著)『門司鎮座 氏神 甲宗八幡宮』1985/1994年(146−149頁) 甲宗八幡宮 大神文和(刊)
■大神文和「二十三年後 中隊慰霊碑」中山主膳(編・著)『門司鎮座 氏神 甲宗八幡宮』1985/1994年(144−145頁) 甲宗八幡宮 大神文和(刊)
■北九州市教育委員会・火野葦平資料の会(編)『火野葦平文学散歩案内』1999年 北九州市教育委員会
■玉井史太郎『河伯洞余滴 我が父、火野葦平 その語られざる波瀾万丈の生涯』2000年 学習研究社
■大神文和「戦友火野葦平の思い出」(1962/1994/2001年)あしへいと河伯洞の会(編)『河伯洞記念誌 あしへい』2001年6月号 創言社
■大石實『福岡県の文学碑 近・現代編』2005年 海鳥社
■葦平と河伯洞の会(編)『火野葦平 1:激動の時代を駆け抜けた作家』2003年 花書院
■葦平と河伯洞の会(編)『火野葦平 2:九州文学の仲間たち』2005年 花書院
■波左間義之「柿添元」志村有弘(編)『福岡県文学事典』2010年(271−272頁)勉誠出版
■山福康政の仕事実行委員会(編)『火野葦平文学散歩地図』2018年 山福康政の仕事実行委員会
■「『帳合米』が『張合米』に 世界初の偉業伝える石碑に誤字も…修正できないウラ事情」『zakzak by 夕刊フジ』2018年1月30日
■「巨大米粒が大阪・堂島に出現 新記念碑除幕式 先物市場発祥の地アピール」『産経新聞』 2018年10月24日
■「堂島米市場(どうじまこめいちば)跡碑」『大阪市』2019年8月26日
■小田雅彦『遺稿詩集&アンソロジー 刻をあゆむ』2019年 ミヤオパブリッシング

ライター

鳥飼かおる

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